Voicyそなえるらじお #1006 前回の南海トラフ地震直後に生じた「三河地震」から学ぶこと
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執筆者:高荷智也

おはようございます!備え・防災アドバイザー高荷智也がお送りする「死なない防災・そなえるらじお」、1月14日(火)、本日も備えて参りましょう!
昭和の5大地震
本日は「三河地震」のお話です。
昨日1月13日は、昭和の4大地震のひとつと数えられる震災、三河地震が発生した日です。1945年(昭和20年)1月13日の未明、午前3時28分、愛知県の三河湾を震源とする深さ11キロ、マグニチュード6.8の大きな地震が発生しました。三河地震の発生です。
観測された震度は、三重県津市で震度5、愛知県名古屋市では震度4が観測されました。比較的浅い場所で生じた直下型の地震にしては震度が小さく感じられますが、これは震源の近くに震度計が設置されていなかったことが理由です。
震源に近かった岡﨑平野の南部や、三ヶ根山地の周辺では、建物の倒壊に関する調査などから、震度7相当の揺れに見舞われたと推定されています。また発生した時期が太平洋戦争の末期で報道管制なども敷かれたため、発生直後には地震の事実があまり報道されませんでした。
昭和の地震
1945年の終戦前後には、大きな被害を出す地震が連続して生じました。1943年9月に生じたマグニチュード7.2の鳥取地震、1944年12月に生じたマグニチュード7.9の昭和東南海地震、今回お話をしている1945年1月に生じたマグニチュード6.8の三河地震、1946年12月に生じたマグニチュード8.0の昭和南海地震、そして1948年6月に生じたマグニチュード7.1の福井地震の5つです。
これらの地震は、いずれも死者1000名以上を生じさせる大震災です。終戦前後時期には、たまたま大地震が都市部を直撃して震災をもたらしたり、また台風による大きな被害が毎年の様に生じており、終戦前後という時期もあり報道管制などが敷かれていましたが、戦争だけでなく自然災害による被害も大きかったのがこの時期と言えます。
三河地震は、1944年の12月7日に生じた昭和東南海地震…いわゆる前回の南海トラフ地震の片割れの翌月に生じた震源が近い地震で、東南海地震の余震、または誘発地震という側面も持っています。
三河地震
三河地震による被害は、死者・行方不明者が3千名以上とされていますが、終戦直前の時期であり正確な数字なのかはっきりせず、より大きな被害であったという説もあります。死因の多くは建物倒壊による圧死・窒息死で、被害の多くは現在の西尾市、安城市の狭い範囲に集中しています。
ちょうど、2016年の熊本地震の様に、狭い範囲に強烈な揺れが襲いかかり、一部の地域において震度7という壊滅的な被害が生じたという状況であったと想定されます。発生時間が深夜3時と言うこともあり、就寝中に突然強烈な揺れに襲われ、逃げる間もなく家が潰れて、たまたまガレキの隙間に入って助かったなどの体験談も多く残されているそうです。
特に強い揺れに見舞われた地域においては、建物の9割近くが全壊するなどの甚大な被害となっており、こうした地域では特に死者が多く発生しています。
また三河地震を引き起こした断層は、深溝断層(ふこうずだんそう)と呼ばれる断層ですが、同じ断層直上の建物でも、激しく動いた西側ではほとんどの家が倒壊し、一方あまり地面が動かなかった東側では建物が残るなど、道1本を隔てて建物の被害に差が出るなどの特徴もあったそうです。
また終戦直前のこの時期は、名古屋周辺の子ども達が三河地域に疎開をしていたケースが多くあり、子ども達が生活をしていた神社仏閣の建物が倒壊して、多くの子どもが犠牲になるという被害も生じています。
直前の大地震
三河地震では多くの建物が倒壊して被害を大きくしましたが、その原因のひとつに37日前に発生していた昭和東南海地震の影響が上げられます。三河地震で被害を受けた地域は、前月に生じた東南海地震でも強い揺れに見舞われており、この時にダメージを受けた建物が、三河地震による揺れに耐えられずに潰れたというケースも多かったそうです。
このパターンは、2023年5月5日に生じた令和5年能登半島地震と、その半年後の2024年1月1日に生じた令和6年能登半島地震の関係にも近く、1回目の大地震によりダメージを受けた建物が、時間を空けて生じた2回目の大地震で倒壊するというパターンを生じさせています。
改めて、大地震直後には、建物の状態を確認すること。連続して本震が生じる可能性もあることを、認識して対応することが重要と言えます。
本日も、ご安全に!
本日は「三河地震」のお話でした。
それでは皆さま、引き続き、ご安全に!